小学生のための学習進学塾 [ハロウィン]

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お父さん・お母さんの合格体験記2006〜2013



I.H さん(2013年卒業A.H さんのお母様)
 2013年2月1日、娘の第一志望の受験日。朝から緊張しているのか、ずっと話し続けていた娘のテンションは自由が丘駅で激励のため待機していらした先生方にお会いした途端ピークに達してしまいました。普段からここぞという時は緊張して頭が真っ白になってしまうと自分でも嘆いていた娘。今日はだめかも・・・受ける前から若干あきらめの気持ちで会場へ向かい、地に足のつかない様子の娘の背中を不安な思いで見送りました。

 これまでを振り返ると、受験までの3年間はせっかちな私とマイペースな娘との闘いの日々でもありました。要領が悪く、なにかと時間のかかる娘にとってハロウィンの予習型の学習は、かなりの労力を必要とするものでした。決して怠けているわけではないのに、いつも空回りをして常に時間が足りないような状況。またそれを見ている私もつい口を出さずにいられず、合理的な方法などアドバイスを与えるのですが、本人は全く変わらず、の繰り返し。そのせいで我が家はしょっちゅう険悪な空気が漂い、お互いにストレスで疲れ切ってしまい何度も受験の断念を考えました。

 その状況を打開するためにとった策は、全てを塾にお任せするということ。気にはなるものの勉強の内容も進み具合も見ず、私はお弁当作りや送り迎えのサポートのみに徹することに。これによって、二人ともかなり気分が楽になり、娘も落ち着いて勉強に取り組むことができたようです。

 それでも思うように上がらない学力や、テストの結果に娘の気持ちが沈んでしまうこともありましたが、そんな時支えになったのはどうしても志望校に受かりたいという強い気持ちでした。

 娘は一年生のころからストリートダンスを習っていて、中学受験を考えたのも公立の中学ではダンス部が無いという点も大きな理由の一つでした。そのため志望校の条件はストリートダンス部のある学校に限定。第一志望は4年生の秋に文化祭で初めて訪れた際見た、ダンス部公演にすっかり心を奪われ、3年後必ずあのステージに立ちたいと決意させた学校でした。この思いは非常に強く、3年間揺らぐことはありませんでした。

 そんな思いがあったからこそ、娘にとって一番効率的だったのは私の叱咤でも激励でもなく、実際に学校に足を運ぶことでした。そのために説明会、文化祭、オープンキャンパス等機会があるたび娘を連れて参加し、モチベーションを維持させたまま受験日を迎えることができたのです。

 受験中保護者は講堂に集まり、当日の問題の解説を受けることができるのですが、娘の勉強を見てこなかった私にはどの問題も解ける気がせず、更に出てきた娘の自信のなさそうな顔を見て気持ちは翌日へ。当日夜の合格発表も一緒に見る勇気が出ず、娘をお風呂に追いやり一人でこっそり見ることに。

 どの受験生の親ももちろん同じでしょうが、私も要領が悪い分、努力を重ねていた娘を思うとなんとかして合格させてあげたいという思いでいっぱいでした。胃が痛いほど緊張して見た合格者の中に娘の番号を見つけた時は信じられない思いと、娘の努力が実を結んだ喜びで声を震わせながら入浴中の娘にインターホンで「おめでとう」と一言だけ声をかけました。そしてお風呂を飛び出してきた娘と何度も番号を確認し、一緒に喜ぶことができたのです。

 その後第二志望校の学校も無事合格し、悲しい涙を流すことなく娘の中学受験は終了しました。娘の勉強に関してはあまり関わらなかった私なので、それに関しては何も言えないのですが、何よりも必要なのは本人のどれだけ受かりたいかという気持ちだと思います。

 また、子どもたちが塾で行っている学習は、着実に彼らの力になっています。今後受験を迎える皆さんには、子どもたちの重ねてきた努力とやる気を信じて当日を迎えていただきたいと思います。

 娘は今、念願のダンス部に入部し毎日楽しく通学しています。宿題も多い上にあいかわらずのマイペースのため、勉強と部活を両立させるのはかなり大変なようで、「受験勉強より勉強してるかも。」と言いながら、ふらふらになりながらも充実した日々を送っているようです。そんな娘を見ながら、改めて中学受験の合格はゴールではないことを実感しています。まだまだこの先も走り続けなければならない子どもたちには、受験までの強い思いを忘れずに過ごしてもらいたいものです。

 最後になりますが、三年間娘を見守り励まし続けてくださった先生方、一緒に頑張り塾を楽しい場としてくれたたくさんのお友達には本当に感謝をしています。ありがとうございました。



H.O さん(2012卒業A.O くんのお母様)
 2月2日昼過ぎ。 意外にもあっけなくわが家の中学受験は終わりました。2日目の受験を終えた息子を待って、1日受験校の結果を携帯で一緒に確認したのです。「あった!」息子は信じられない様子で、でも満面の笑みで何度も結果を確認していました。親子の長い長い中学受験の道のりは終わり、やっとあこがれの中学でのスタートラインに立てたという安堵の気持ちでいっぱいでした。

 現在、息子は毎朝誰よりも早く家を出て登校しています。あこがれの学校、新しい先生や友達との出会い、そして受験で中断していた野球を広いグランドで再開できる喜び、まるで水を得た魚のようにいきいきとした毎日を送っています。会心の中学受験結果になったのは、ハロウィンでの仲村先生、中野先生との出会いがあったからこそだと思います。

 ハロウィンの体験授業を受けたのは4年生の夏期講習が始まる直前。それまで通っていた大手進学塾では宿題をこなし切れず、塾に相談しても通り一遍のアドバイスで何の解決にもなりません。最後は主人が塾と大ゲンカ、ついに転塾を決めました。

 集中力が持続しない、じっくり考えることが苦手、自己主張が強い、・・・こんな息子を見てもらうには、少人数で子ども一人ひとりの個性に合わせた指導をしてくれる塾でなければ・・・そう思っていたところに、知人から紹介されたのがハロウィンでした。一度の体験授業で息子は「ここにする!」と気に入った様子でした。

 わが家には、中学受験を経験した兄が二人います。その経験があったので、受験に関する知識は他のご家庭よりあったと思います。ところが、中学受験は十人十色、三番目の息子は三人の中でもっとも自己主張が強く、熱しやすく冷めやすい、一番扱いづらい性格でした。ハロウィンの面談で仲村先生は「彼は男らしい性格です。彼の性格にあったやり方で成績を伸ばしましょう」と言ってくださいました。この言葉が最後まで親子の支えになったのです。

 5年生までは、成績よりも机に毎日向かうこと、その習慣をつけることに重きを置いていました。6年生に進学して、最初の大きな決断は塾と野球との両立でした。息子は、地元の野球チームに所属していて、週末の練習や試合に出ることで塾とやりくりしていました。ところが、6年生のカリキュラムに入ってからは両立が難しくなり4、5月ころには限界を感じました。親としては少しでも好きなことをできる時間を作りたいと思いましたが、野球に行くことで宿題や予習に割くべき時間が減り、その結果授業がわからなくなり、テストでの点数が取れないという悪循環。中学受験をするのなら本気で取り組まなければ良い結果を得られないと息子と何度も話し合い、最後は本人が野球を休部すると決めました。

 このころに志望校の絞り込みを始めるのですが、志望校選びはどのご家庭でも難しいものと思います。5年生から学校の説明会や文化祭など、息子を連れて回るものの、息子は気に入ったのかそうでないのかはっきりしません。「中学受験は親の受験」といわれる通り、偏差値だけではないとわかりつつ、お金を払っても行かせたい学校はどこかと悩む日々が続きました。仲村先生、中野先生には何度も個別面談をお願いすることになりました。主人の帰りを待って21:00過ぎにハロウィンに伺い、授業でお疲れのところ嫌な顔をひとつせず、一緒に志望校を熱心に検討してくださいました。

 親子で話し合う中で、主人が卒業した附属校を第一志望校に決めました。

 6年生も夏休みに入ると、一人ひとりのレベルと志望校に合わせた山のような宿題。まずは息子と相談しながら一日ごとの計画表を作りました。ハロウィン保護者会でご指導いただいた通り、好きな教科・得意教科と嫌いな教科・苦手教科のバランスを取りながら、また重い課題と比較的短時間でこなせる課題を組み合わせ、一日ごとの計画表を作りました。塾がある日とない日の家庭学習時間も異なるので、それも考慮しながら毎日必ず4教科学習できるように予定を組みました。毎日その計画表を見ながら終わった課題には赤線を引いて消していく、淡々とそれを繰り返す日々でした。

 わたしの目から見ても、息子は夏休みによくやり通したと思います。頑張ったから模試の結果も上がるはず。そう思うのは本人だけでなく親も同じです。ところが、そううまくいかないのが現実で、好きな社会では高得点を取りますが、算数でボロボロ、結局模試の結果はずっと横ばいでした。

 仲村先生の息子に合わせた受験対策は、「算数は難問に次々取り組ませます。解けなくても問題にかじりつく根性と粘り強さを身につけましょう。ケアレスミスは出ますが、それは計算のうち。受験までに必ず実力がついてきます」というものでした。成績は上がらず、息子のムラッ気から考えられないようなケアレスミスを毎度も繰り返し、模試の結果を見てはガッカリという繰り返しでした。

 振り返れば親子とも、このころがもっとも苦しい時期でした。受験生に対する禁句「それじゃ受からない」「受験やめなさい」を私が連発し、反抗期の息子とのバトルは数知れず。「本当にこのまま難問に取り組ませていいのだろうか」と心配になりましたが、ここまで来ると仲村先生の言葉を祈るような気持ちで信じる毎日です。結局、本人の意識を高めること、もっと点数をとりたいという欲が出なければ点数は上がらない、という当たり前のことが、結果につながりだしたのは、その年の終わる12月ごろからでした。

 当初親が勧めたのは父親の母校、息子にとってはお父さんと同じ学校というあこがれはあったものの、どうしてこの学校が良いのか?「ただなんとなく」としか答えられないようなレベルでした。11月に入ってから家族で志望校を変更しようと話し合い、息子は説明会で集めた学校のパンフレットをしきりに読むようになりました。この時期に第一志望校を変更することは大きな賭けですが、結局本人がどうしてもここに行きたいという気持ちがなければ、成績にはつながってきません。 息子は、家から比較的近くグランドの広い学校が気に入った様子で「おれはやっぱりここにする!」と自分で決めました。教育方針に賛同できる学校だったこともあり、仲村先生に相談して思い切って志望校変更を決めました。11月も終わるころで、受験まであと二カ月という状況でした。

 自分で決めたからにはやらなくてはという気持ちがわいてきたのか、志望校の過去問に取り組む姿勢は真剣さを増したように思います。12月に入ると緊張感も高まり、以前に勉強を見てもらっていた兄に頼ることもほとんどなくなりました。ようやく「心のギア」が入った状況でした。

 最終的な併願校を決めるのもこの時期でしたが、過去2回の中学受験の経験や反省をもとに併願校は思い切って絞りました。長期戦になった時に備えて、どんなに体調不良でも多少ケアレスミスをしてしまっても合格をいただけるレベルの学校を早めにおさえておくこと、2日以降は結果次第で受験校を選択できるようW出願しておくこと、1月の試し受験は模試代わりに、でも確実に合格できる学校を受ける、などなど。

 結果、息子は1日の第一志望校から合格をいただくことができました。ひとえにハロウィンの先生方が子ども一人ひとりの学力や性格、また志望校に合わせたきめ細かいご指導をいただいたおかげです。少人数制の塾ならではですが、先生方の子どもたちに対する愛情も息子の心の支えになっていたと思います。息子はハロウィンが大好きでした。先生も、共に学んだ仲間たちも。

 苦しい時にこそ歯を食いしばって頑張る、そういう体験、経験が今の大学生には乏しいと聞きます。若者の言葉でいうなら「ガチになる」。ガチになる経験が多ければ多いほど、鍛えられて成長するのではないかと思います。

 「子どもの進む道に転がる石ころを親が拾わないでください、転んでも子どもは自分で立ち上がります。」入学した学校の先生の言葉です。子どもが悩み苦しむ姿を見るのは親にとっても切ないものですが、そこはあえて余計な手や口を出さず静かに見守るのが理想の親の姿かも知れません。



M.I さん(2011年卒業 N.I さんのお母様)
 「ここにする!」体験授業を終えた娘が興奮を抑えきれない様子で教室を出てきた。「受験宣言」も飛び出す。とんでもないことになった。内心、私はそう思った。

 娘は、私学っ子だ。よほどのことがない限り系列校まで進学できる。それが受験とは…冗談じゃない。目の前がクラクラした。

 知的好奇心旺盛。その性格が学校教育の枠に収まり切らなくなってきたのが、4年の頃である。ハロウィンの門を叩いたのも、娘の思いを満たしてやりたい、ただそんな単純な気持ちからだった。

 その頃の私は、悶々とする娘に何もしてやれずにいた。大手塾の公開テストに挑戦させたり、個別指導も試してみたが、どれにも娘は満足しない。そのような中、娘を心配して下さる知人より、ハロウィンを紹介されたのだ。 実は、いくつかの塾で面談をする中、パターン化されたセールストークに私は辟易としていた。また同じなのではないか…そんな不安を抱きつつ、仲村先生とお会いした。しかし、娘の事情をお話しし、説明を伺っているうちに「ここは大丈夫かもしれない」と思った。「本音トーク」とでもいおうか、仲村先生のお話は明らかに他塾のそれとは違って感じられたのだ。

 娘は、水を得た魚のようにハロウィンに通い始めた。 そして「受験」という娘の挑戦を応援してやろう、と私たち夫婦が決心するまでに、さして時間はかからなかった。 学校には、無理を承知で娘の状況をお話しし、ご理解頂いた。また受験をする以上、系列中学への進学も辞退させて頂いた。場合によっては退校もありうる、と覚悟していたが、ありがたくも卒業はさせて頂けることとなり、娘もそれを望んでいたので感謝の思いで一杯だった。

 しかし、学校の意向もあり、ハロウィンでは私学っ子であるという素姓を隠し、学校では受験生であることを隠す、という二重の仮面生活を娘に強いることとなる。それが娘にとって大きなストレスとなったことは否めない。でもハロウィンのお子さんたちは、そんな正体不明な娘と掛け値なく仲間として接してくれた。本当にありがたいことだった。

 また、どこにいても本当の自分を出せない辛さを、仲村・中野両先生には広い懐で受け止めて頂き、娘は日々救われていた。自分を本当にわかってくれるのはハロウィンの先生だけ…よく娘はそうこぼしていた。ハロウィンは娘にとって、まさに自分の「場所」になったのだ。(実際、授業がない日でも娘はいつもハロウィンを居場所としていた。空気を吸っているだけで幸せだったのだそうだ…)

 私学っ子の受験は、いろいろな問題が絡み、相談できる経験者もない。学校には最後までがんばって通う決意をしたはずだったが、やはり地元の公立小に転校すべきではないか、などの問題が再浮上したりもした。受験する、と自ら明言したとはいえ、所詮は10歳そこそこの子供である。全部投げ出しそうになったのは、一度や二度ではない。そのたびにハロウィンの先生は、一緒に考え、温かくサポートして下さった。親子共々、ハロウィンでなかったらこの受験はありえなかったろう。

 娘の受験を許したのは、結果に勝算があったからではない。娘が、ハロウィンで「生きた学び」をし、「生きた時間」を過ごすことができていたからである。あんなに幸せそうにされたら「ダメ」とは言えなかったし、ハロウィンでの日々が娘にとって必ず意味のある時間になる、と確信したからである。

 ハロウィンは、一見締め付けがなく自由な雰囲気だが、オンオフのけじめがはっきりしており、子供たちもやる時は集中してやる。勉強のボリュームもあり、難度も高い。自分から勉強しないと、どんどん置いていかれる。私学っ子は通学に時間をとられる上に、課題や行事で放課後や週末も忙しい。そんな中で、ハロウィンを続けるのはかなりハードだったはずである。ところが、娘は一度たりとも弱音を吐かず、一向に色あせる様子がなかった。ハロウィンに通い始めて2年が経とうとしていた頃、娘がこう言った。
「毎日が充実していると時間ってあっという間に過ぎるんだね。退屈しないなぁ。受験まであと一年か…ハロウィンが終わっちゃうのつまんないな。もっとやっていたい」
 いかに娘が幸せな時間を過ごしていたかを象徴する言葉だった。

 娘がハロウィンにこれほどの充実感を見出していたのは、ひとえに仲村・中野両先生に篤い信頼を寄せていたことが大きい。親は自分の子供しか知らず、すべて未経験だが、プロの先生は、長年多くの子供をご覧になっておられる。面談のときに、親も気づかない娘の性格や心理を的確に指摘され、夫婦で驚いたこともある。志望校についても、親とはまったく違った視点から、娘が最も充実した学生生活を送れるよう、アドバイスして下さった。深く子供のことを見て、理解して下さっていること、これが娘の心をつかんで離さない理由なのだと実感した。ここまでハロウィンと娘の絆が固ければ、親の出番はそれほど必要ない。 すべて先生にお任せし、実際、娘にしてやれることは日々の送迎とお弁当づくりくらいしかなかった。しかし、このようなありがたい環境にもかかわらず、娘の足を引っ張ったのは何を隠そうサポート役であるべき母親の私だったとさえ思う。

 6年の二学期に娘はスランプに陥った。夏休み明けの模試でハイスコアを出した娘は、その後油断し、明らかに手を抜いていた。ジャニーズの「嵐」に溺れ、二宮和也に舞い上がっていた。それは、じわじわと模試の結果にも表れた。それまで先生方のナビゲートによって娘がよいペースを保てていたのに、私は心配になり、娘に干渉しはじめた。母子間の衝突は特に避けるべし、と先生からご注意を頂いていたにもかかわらず、精神的に正念場という大事な時期に、ケンカが増え、また成績が下がる、という悪循環にはまりこんだ。

 娘のような子がスランプになりやすい時期であり、これは想定内、との言葉を素直に信じて先生のおっしゃる通りにしていればよかったものを、親の私に迷いが生じ、娘のペースを乱してしまった、と大いに反省している。

 二学期後半がもっともしんどい時期となったが、結局、娘はハロウィンの先生に支えられて、このピンチも克服することができた。これにより、娘は先生方のアドバイスに一層の信頼を置き、自分流のラストスパートをかけ、試験当日はとてもよい顔立ちで会場に入っていった。

 私たち夫婦は常日頃から子供に「自分の頭で考え、自分で動け。自分の二本足で立つように」と言っている。しかし、このことを本当の意味で娘に教えて下さったのはハロウィンだったのかもしれない。ある意味、ハロウィンのお陰で娘は、未完成ながらも私たちの望む方向に成長してくれていたと言える。そのことを思えば、ダメ母で大いに結構である。

 ハロウィンとの出会いは、娘の今後を大きく変えた。希望の学校にご縁を頂くことができたのもありがたいことだが、それ以上にハロウィンでの3年間に大きな意味があったと申し上げたい。娘は本当に幸せだったし、成長した。

 最後になるが、ハロウィンは子どもにとって楽しい場である。学ぶことは本来苦しいことではないということを実感できると思う。今後、多くのお子様が縁に恵まれ、ハロウィンに導かれることを願ってやまない。受験は長い道のりだ。二度とやり直せない子供たちの貴重な時間である。それが幸せなものであることを心からお祈りしたいと思う。

 卒業はしたが、娘にとってハロウィンは今でも大切な場所である。

 仲村先生、中野先生、ほんとうにありがとうございました。そして、これからも娘をよろしくお願いします。




M.I さん(2009年卒業 M.I くんのお母様)
 ここに合格体験記を書くことになるとは、一年前は全く想像できなかった。我が家の「受験道」は、周囲の暖かく優秀なナビゲートのお陰でなんとか到着点にたどりついた次第だからである。本音を言えばここに登場するのは荷が重い。が、確かにしんどかったが、最後まで前向きに進めた受験は幸せだったと今は思う。我が家の道をたどることで、少しでもご恩返しができれば幸いである。

 息子は、4年生の2月(塾では5年カリキュラム開始時)にハロウィンへ転塾した。4年から大手の塾で2科目通塾していたが、算数に苦手意識を抱き始め、やがて塾の雰囲気もあわなくなり「やめたい」と明言するようになった。それが、体調の変化としても表れ始めたのが4年生の1月。こうなったら、転塾するのは今しかないと決断をせまられた。様々な他塾をリサーチして絞り、通塾しつつ息子に他塾を体験させるというハードな数週間が続いた。なぜなら息子は自分で納得しないと進まない性格だからだ。そして、ハロウィン体験当日、息子を大歓迎してくれた在塾生、先生方のエネルギッシュな授業に、息子はためらいもなく「ここなら僕はやれる」と断言した。

 先生方は、入塾の面談で、息子の性格を的確にとらえてくださり、息子が既に心に決めている志望校も受けいれて下さった。この時点で私も「きっとここは息子の居場所になる」という不思議な安堵感を得たことを覚えている。

 しかし、勉強面は正直ハードだった。少人数では、授業もお客さまではいられない。塾の雰囲気は、底抜けに明るくにぎやかだがオンオフの切り替えは明確で、皆勉強はしっかりこなしている。勉強法にとまどう息子や、持ち帰る塾の小テストや模試の数値のものすごさに、手とり足とり勉強を教えたくなった。けれども、先生は「なるべく親が手をださないように」とおっしゃった。「勉強は自分でやるもの」という姿勢を身につけさせるよう、息子の欠けた点を見抜いた上でのご指導だった。さらに、新しい環境に慣れるのに時間を要する点も配慮してくださり、お陰で息子はいきいきと通塾するも、成績は得意の国語以外は「・・・」の状態で一学期を終えた。夏休みには膨大な宿題が課され、特に、親でもうなるような複雑な計算問題の束を前にして、息子は半泣きしながら取り組み、時には、いらついて問題用紙をくしゃくしゃに丸めてしまうこともあった。しかし、あきらめず全てやり遂げた時、計算力が上がっていたことを実感し驚いていたのは当の本人だった。自分の意志でやり遂げられたのは、先生のおっしゃることは「神の声」ほどの信頼感をもち、塾の仲間達との切磋琢磨を楽しいと思えた故だろう。この頃から、本人なりの成績上昇が見られるようになり、算数の苦手意識もなくなっていた。

 塾への息子の信頼感は、生活面においても大きな支えとなっていた。実は、息子の学校のクラスはあまり環境のよいものではなく、秋以降はかなり憂慮すべき状態だったのだ。不器用な面を持つ息子は渦中に身を投じてしまい、暮れから年明けにかけて学校へ通うこともかなりのストレスを伴うようになっていた。そんな時、息子にとって安住の地はハロウィンだった。先生方、塾の仲間の中で、息子は自分をかろうじて保つことができた。私も、受験をいう枠をこえ、先生方には精神的なアドバイスを多々いただき不覚にも涙した日も多い。先生方の根気強く、的を射た息子へのアドバイスは息子の心を潤し、数々の危機を乗り越えることができた。我が家の場合は特殊な状況だったが、受験期は子供も親も様々な精神面での試練がある。このような時、勉強のみでなく心も受けとめてくださるような塾の大きさは計りしれないと痛切に感じた。

 さて、波乱に満ちた5年も終わり、いよいよ受験学年。学校のクラス担任も変わり、ようやく生活も落ち着きをとりもどした。息子も、来年は受験だ!と口ではいうものの、今一つどころか三つくらい意識がたりない状態だった。好きな教科や分野の成果はでるが、嫌い・苦手と思いこんだものは腰が重くなかなか定着しない。そのくせ、志望校は絶対に変えないと言い張る。時間も限られてきたため、夫婦で伴走することにした。主人は算数担当で、毎朝および週末の学習につきあい、私は全般的な学習スケジュール管理および社会・理科担当となった。塾の指導に忠実に、復習を中心に行い、苦手な問題は繰り返し行うよう心がけた。しかし、夏が過ぎ、過去問を始める時期がやってきても、本人のスイッチはなかなか入らず結果も伴わない。さらに二学期は、学校行事も塾の内容も濃く、模試も頻度を増し、親子とも身体的にも精神的にも余裕がなくなり辛い時期である。そんな折、保護者会で「これからがご両親の精神的出番です」といわれた。平たく言えば、子供と衝突しないよう親はぐっとこらえるということである。これは、私のように許容量の乏しい母親には苦行以外のなにものでもなかった。何度もくじけそうになっては、塾のお母様方と励ましあい助けていただいた。そうして迎えた、12月最後の模試の第一志望校判定も、合格にはほど遠い結果だった。もし偏差値のみで志望校を決定する塾だったら、志望校変更を強いられ、今はなかっただろう。(実際、志望校別模試を受けたとき、担当者から「今すぐこの結果を持ってお通いの塾へご相談にいらしてください」と言われた・・)それでも、ハロウィンの先生方は、動じることなく、子供の様子や試験傾向を考慮なさった上で、息子の志望を優先してくださり「この子は、精神的なスイッチが入れば変わる。試験直前まで上がります。」と志望校に特化した勉強を指示してくださった。きっと陰では胃の痛くなる思いをしていらしたに違いないと思うのだが。 当の本人は、依然として、のほほんとしており、親は歯がゆい思いを抱いていたが、年末に初めて「受験が怖い、僕は全然できていない」と夜に突如号泣した。その頃から、本人の意識が変わり始めたのかなと思う。

 年が明け、受験まで秒読み段階。塾でも算数を頑張っているとのお言葉を頂戴し、家でも、ようやく息子のスイッチがオンになったかなと感じられる場面が見えてきた。この頃の学習は、過去問と志望校に向けた理科・社会の知識の押さえに終始した。結果、秋からやり始めた過去問は、第一志望校20年分を3回(3回目はミスが多かったところを重点的に)、第二志望校10年分1回をなんとかこなして傾向を染み込ませ、理科・社会は前々日まで淡々とひたすら覚えた。さて苦行を強いられた私はといえば、最後にできることといえばテンションを下げずにいくことくらいである。お弁当のおにぎりは全て○の形、新月に願いごとを紙に完了形で書くとよいと聞き、息子と二人で机の横に書いて貼るだの、気持ちをひたすら明るく盛り上げるほかなかった。

 その後も、インフルエンザに撃沈されたり、1月校敗退など波乱は生じたが、激励会で多くの先輩にエールをいただき「僕も来年は合格して後輩を激励する」と強く心に刻んだようで、2月1日試験当日、自由が丘で先生方に激励していただいた後、しっかりした顔で試験会場に入っていった。

 1月校は1校のみの受験だったため、1、2、3日と合格無し&合否知らずの状態で試験に臨み、3日に2校同時に結果が開くというスケジュールであった。息子の性格にとっては合否を知らず平常心を保てた点は吉とでたが、正直、親としてはかなり不安であった。だから、3日の午前にいただけた合格に関しては、本当に感謝という思いだった。そして3日午後の第一志望校合格発表、自分ひとりで掲示板を見ると言い張る息子を説き伏せて、私も一緒に掲示板まで付き添った・・・そして、我が家の受験は終了した。

 今、こうして合格体験記を記せることは、ハロウィンにご縁あってこそと、仲村先生、中野先生には心より感謝してやまない。また、ハロウィンのお子様方、お母様方のお人柄に大変恵まれ、親子共々励ましていただいたことも大きな力となった。息子にとって、ハロウィンは勉強の原点であり、今後も精神面での支えとなることだろう。

 これからのハロウィンの発展と、後輩の皆様の明るい前途をお祈りしつつ、つたない体験記を終わらせていただきます。



H.Mさん(2008年卒業 S.Mくんのお父様)
 「中学校受験は家族全部が一体となって、ひとつのことに立ち向かえる最後の機会。大変でしょうが、頑張って下さい」――。ハロウィン1期生・K君のお父様から、そんなお話を聞かされたのは、K君の中学校合格祝賀会に呼んで頂いた時、今から2年前でした。その時は、あまり実感が無かったのですが、我が家もハロウィンとの二人三脚で全てを終えてみると、なるほどなあ、と痛感することしきりです。ながらく長男をご指導して下さった、仲村・中野両先生には感謝一杯です。

 我が家の長男にハロウィンを紹介して下さったのも、Kさんご一家でした。きちんと机に向かう習慣すら怪しい状態のまま、長男が小学4年生の5月に通い始めた当初、四谷大塚の定期テスト偏差値は40台前半。これで本当に中学受験なんか出来るの?、と親を不安に陥れるのに十分な成績でした。見るに見かねて親が手伝い始めると、次第に低空飛行の高度は上向いたものの、いつまでも親が付きっきりという訳には行きません。勉強の仕方や学校生活を巡って母親と衝突した揚げ句、模試の成績が急降下するなど、波乱が続いた後、ようやく自ら勉強、そして受験に立ち向かう姿勢が出来上がったのは、5年生の秋も深まったころだったように思います。

 それと軌を一にするように、長男は精神的にとても成長し、タフになりました。家で怒られるとソファの隅で涙を落としていたのが、親に多少怒鳴られたぐらいでは動じなくなり、学習での落ち着きも増してきました。勉強面だけでなく、メンタルな面での目配りまで、きちんと行って下さった先生方のお陰だと思っております。

 「戦友」である同学年の仲間たちに恵まれ、少人数クラスならではの親密な関係を築くことができたのも、ハロウィンの大きな利点だったと思います。時にライバルとして切磋琢磨しあい、時には友人として楽しく過ごすなど、学校生活とはまた別の、大切な人間関係を学ぶ場となりました。

 2月初めの受験本番は、私たち親子にとって、非常に長い1週間となりました。1日午前の第1志望校に加え、1日の午後校、2、3日の第2志望校と、4つ連続で全滅した時、長男の涙を見るのは、誠に忍びないものでした。ようやく4日受験の第3志望校が滑り止めとなったものの、予想以上の厳しい結果に、親子共々、脱力状態でした。翌日、入学手続きはしましたが、本当に今年の中学受験はそんなに難化しているのか、といろいろインターネットで調べるうち、6日に受けられる有力校が残っていることが分かりました。しかも科目は国語か算数どちらか一つ。ラストチャンスに賭けてみよう、と決断しました。

 志願締め切り当日の昼過ぎに、母親が学校へ急行し、現場で願書を書いて提出。その晩は、私がネットで調べた資料を基に、家族で<作戦会議>を開いて、翌日の試験に備えました。第1志望校に合わせてずっと指導して頂いた記述訓練が、最後に役立ちそうな感触もありました。

 翌7日の発表日、「お父さんと見に行くと、みな落ちてたから、オレ一人で見に行くよ」と言って出掛けた長男から、私の携帯電話に「受かったよ」と連絡が入りました。胸をなで下ろすと共に、親の方も最後まで諦めてはいけないんだな、と身に染みました。

 中学受験は、さらに6年後にある大学受験に向けた通過点みたいなもの。とはいえ、最も多感な時期を過ごす環境は少しでも良いところを、と願うのが親心です。  後に続く後輩の皆様方の、ご健闘をお祈りします。



M.Fさん(2007年卒業 Y.Fくんのお母様)
 「まじヤバい、算数満点かも。絶対受かった!」
 これが第1志望の武蔵の受験を終えて校舎を出てきた息子の最初の言葉だった。
 上の息子が自分の経験から、「「できた!」って言って出てきた人は落ちてる」と言ったことを思い出し、私は不安にかられた。すっかり浮かれた息子は午後受験の武蔵工大付属に行く必要もないといわんばかりに、電車の中でも今終わった問題用紙を見返している。
 案の定その夜10時、武蔵工大のインターネット発表は不合格だった。
 息子は布団をかぶって嗚咽をこらえていた。

 私の2人目の中学受験は、1人目以上のプレッシャーとの戦いだった。
 仲村先生、中野先生のお陰で第1志望の麻布になんとか合格した2歳上の兄をずっとそばで見ていた息子は、「兄と同じ学校はいやだ、でも制服は着たくない。」という勝手な理由で、5年の始めからすでに武蔵受験を声高に表明していた。
 本人が一番行きたい学校に行かせてやりたい。どの親も皆そう願っていることだろう。それが兄弟の片方は叶い、片方が叶わなかったとしたら・・・。そのことばかり何度も繰り返し悩んだ2年間だった。
 「同じ兄弟でも性格や特性が違う。決して比べてはだめ。」仲村先生から個人面談でそう指摘されて少し楽になったのがもう6年になってからだった。それまでは四谷大塚のテストが終わればつい兄の時の結果と比べてしまう自分がいた。この子にはこの子のやり方がある。いつかきっと本気になってパワーを出してくれる。そう信じて受験に立ち向かっていった。

 息子の5年の時の成績はぱっとしないものだった。先生方も頭をかかえておられたに違いない。ずっとサッカーを続け、平日も土曜も練習や試合を優先していたこともあったと思う。
 だが6年になってサッカーを休部しても、相変わらずテストの成績は上がらなかった。親はもちろんあせるのだが、先生方は終始「点数を気にするな」の一点ばりだった。「目先のテストの成績を上げるような教え方はしていない。力はきちんとついている」、「特に男の子は最後に伸びる」、「わが子を信じてあげてほしい」・・・ずっとそう言われ続けていた気がする。
 結局四谷の合不合判定テストで武蔵の合格可能性は1回目が一番よくて40%、4回目にいたっては20%、学校別判定テストも20%という状況のまま冬休みを迎えた。

 「どんな子も本気になる時期が必ずいつかやってくる」と言われる。ただ、それがいつなのか、教えてもらえるものなら教えてもらいたい、と親は思う。早く気づいて着々と準備を始める大人っぽい子もいるだろう。残念ながらわが家の2人は幼いタイプ。仕方なく私は、受験も一つのお祭りのようなもの、どうせなら明るく盛り上げてやろう、と考えた。合格お菓子(うカールのたぐい)を制覇する等々、くだらないことばかりなのだが、親も何かしていないと耐えられなかったということもある。
 その中で一番恥ずかしいのは、息子のにっこり笑っている写真を切り抜き、学校案内から取った志望校の背景に貼り付けて合成し額に入れるというもの。おまけに余白にこのように書く・・「来年の4月、君はどこかで桜の花を見ている。そこが武蔵中の校庭であることを目ざして、もう少しだ、ガンバレ!」。
 弁解するようだが、ネットで見た経験者のお父さんがやられたのを真似したのだ。
 これを居間の真ん中に飾っておくのだが、来客がある場合はあらかじめ片付けておかないと、ものすごくバツの悪い思いをするのがネックだ。

 わが家では小さい時から居間のテーブルで勉強する習慣だったので、受験生がいると家族全員が迷惑する。だが、逆に家族が気を遣うことで、みんなが君を応援している、という思いは伝わったかもしれない。上の子もありがたいことに、ずいぶん算数や理科を弟に教えてくれた。
 息子が塾に出かけている間だけ、私たちはのんびりテレビが見られてほっとすることができた。

 受験生に正月休みもあるはずはなく、すぐに1月のお試し受験。この頃からさすがののんびり屋の息子も、このままではまずいのではないか、とようやく気づいたようだ。人が変わったように勉強していた。11月ごろからは、授業のない日も連日塾に行って勉強。家にいるよりよほどはかどったのだろう。

 武蔵の入試問題は特殊だと言われる。そのあたりはお手のものの仲村・中野両先生のもと、息子は徹底的な武蔵対策に取り組んだ。
 過去問は、昭和60年代までさかのぼってとことんやり、学校別の算数の対策プリントもくり返し復習し、有名な理科のおみやげ問題の対策もしていただいた。
 2月1日の日、私は安心して、「あなたほど武蔵の問題をやった男はいない」と送り出してやることができた。ありがたいことに、インフルエンザも流行せず、暖かな冬だった。体調万全で2月1日を迎えられたことそれだけに、心から感謝した。

 例年300点満点で合格最低点は140点ほど、算数でかせげる子は有利と言われていた武蔵が、なんと今年は最低点192点、算数が異常に簡単、という思わぬ結果。よくわが子が引っかかってくれたと今でも驚いている。
 「だから合格するって言っただろ」と相変わらず可愛げなく豪語する息子だが、合格してしばらくは時々思い出したように、「おれ受かったんだよね・・」とつぶやいていた。

 息子がこうして中学受験を終えることができたのは、まず第一に仲村先生、中野先生のお陰だ。お二人は勉強だけでなく、父親とは違った大人の男性のモデルとして、生き方をも意図せずに教えてくださっていたのだと思う。息子たちの先生方への思慕は尋常でなかった。そしてもう一つ、一緒に勉強し、励まし合ってきた仲間たちの存在。どれほど親以上に励みになっていたことだろう。
 塾に行くことは全然つらくない。学校よりも塾が絶対楽しい。そう思いながら最後まで受験勉強できたこと、これほど幸せなことはないと私は思う。

上の子から始まり6年間お世話になった仲村先生、中野先生、本当にありがとうございました。



M.Oさん(2006年卒業 S.Oくんのお父様)
始まりは・・
 子どもが成長の過程で思春期をどのような環境で過ごすのか。この部分をまじめ!?に父親として考えたことが私と中学受験との関わりの端緒だったような気がします。成長期の子どもにとっての学校という「場」のウェイトを考えた時、考え得る中でより良い選択をさせたい。この点に関しては父親、母親の違いはないと思います。
 子どもがまだ低学年の頃、どんな学校がいいのかというぼんやりした思いを抱きながら、学校案内をイソイソと読み漁るうちに私の頭に漠然と「麻布」という文字が浮かんできました。“リベラル”、“家から近い”、“卒業生に北杜夫や吉行淳之介”(よく読んでいた)、私がその昔ディスコに行っていた六本木のとなりの広尾(余計か)というイメージとともに。
 「私がもし中学生に戻れて好きな中学に行けるとしたらやっぱりそんな麻布かなあ。楽しそうだし。だとしたら、そんな麻布の環境は自分の子にも合っているんじゃなかろうか。」
 親主導の空想は広がるばかりです。しかし麻布に行くには中学受験をしなくてはなりません。しかも結構難しいらしい。 「はたしてうちの子に出来るか。片付けが人一倍遅く、少なくとも今までに定期券を10回は落としているうちの子に。」 そんな不安の中で、受験生活を開始しました。(ちなみに本人が麻布を意識しだしたのはおそらく5年生の時に文化祭に行ってから。行くぞと思ったのは6年生の夏頃ではないでしょうか。)

受験生活(6年生の夏前まで)
 お断りしておかなければならないのは、これは、こうすれば必ず合格するという最短距離のお話ではありません。実際、振り返ってみると最短距離など我が家にはありませんでしたし、手探りで塾の先生のアドバイスを道標に山道をくねくねと登って行ったような状態が最後まで続きました。本当に山あり谷あり、それに途中崖から何回か転落しました。一つだけ言えるとすれば当たり前ですが、どんなにテストの結果が悪くとも勉強を継続することをやめなかったことでしょうか(説得力ないですね)。
 いわゆる受験勉強を開始したのは3年生の2月。それ以前は公文の教室へ通っていました。基本テキストは四谷の予習シリーズ。年間18x2(前期、後期)=36回、6年の前期までだと36x2+18=90回。うちの幼い子どもでは、これを一人でこなすのは無理と考え(特に4・5年時)、私が伴走することとしました。(それから三年間、我が家の教務担当は私でした。) 今考えると予習シリーズの中のいわば名所旧跡を一緒に見て回り、時々噛み砕きながら説明していたような感じでしょうか。実際、地理はまさしくそんな旅行感覚で私自身が少し楽しみながらやっていたように記憶しています。
 一週間の予定としては、週テストが土曜日の午後に終わるので、その日の夕方から夜にかけて次の週の理社の予習シリーズを二人で音読しました。また日曜日に算数と国語のシリーズを一緒に予習、平日の塾のない日にシリーズ以外のサブテキストの練習問題をこなしていました。サブテキストはかなりボリュームがあったので私が適宜子どもの様子をみながら問題を取捨選択していました。
 この時期は、基本的には四谷のカリキュラムに従い、毎週の課題を消化していったという感じでしょうか。私にも理解不能の箇所(理科の電気など)は書店で他の参考書(理科では「裏わざ」など)を買い求めて私が理解したうえで、子どもに説明していました。結局、このパターンを6年生の夏前まで90回繰り返したことになります。
 なお、子どものテキストを横から覗き込むのは体勢的に疲れるので、途中から私も自分用のテキストを買い求め、私自身は腰が痛いという口実の下、寝そべって自分用のを子どもと一緒に読んでいました。このためビールが入っている時など、いい気持ちで途中から眠ってしまい、いびきがうるさいとよく子どもに言われました。
 こうやって一週間を過ごしていくと、我が家の場合、結構時間的にきつかったため夏期などのまとまった休みには算数だけは先取りでシリーズの予習をしていました。また、個人的には5年生の夏を中心として東京出版の「中学への算数」の別冊、「ステップアップ演習」を一通りこなしました。ちなみに6年生からは月刊「中学への算数」の「日々の演習」を塾の勉強以外に毎月少しずつやっていました。

受験生活(6年の夏から入試まで)
 6年の夏から過去問演習を始め、これにかなりの重点を置いて、最終的に入試までに麻布に関しては算数が24年分、その他の教科は大体20年分をなるべく丁寧に見直しをしながら2回ほど解きました。特に算数の出来なかった問題については3回4回と解きなおし、頭で理解するというより体に沁み込ませるようなつもりで繰り返しました。確かに過去問は一度出た問題で二度と出ないとする考え方もありますが、昭和50年代まで遡ると問題を解く際の根底にある必要な基本的な発想様式のようなもの(うまくはいえませんが)は共通しており、それらは過去問を通して身についたと思います。しかし、その他の学校の問題については冬休み以降5年分を一回が精一杯でした。
 わからなかった問題は私が考えてわかれば、そこで子どもに説明し、どうしても?の問題に関しては塾の先生に質問するようにしていました。
 知識に関しては理社は最高水準ノートを中心にやりました。繰り返しやったのですが、次第にコピーをとるのが面倒になり同じ本を3,4冊買ってつぶしていきました。国語の漢字では旺文社の「出る順」をこれも3,4回繰り返し、出来ない漢字をあぶり出して覚えるようにしました。
 さて、模試ですが、6年前半は合不合予備、秋からは合不合と学校別模試。合不合予備では80%ラインのかなり上を行っていましたが、秋の合不合では20〜30%のオンパレードでした。
 では、学校別の模試はどうだったかというと某塾の2回のオープンテストでは最初の1回目が下から10%。この時はさすがに厳しいかなと思いましたが、2回目が上から10%で、「試験ってやはり水物」の思いを強くしました(突き詰めればうちの子に波があるだけですが)。
 塾の先生からは結果に関しては気にしないようにとのことでしたが、やっぱり気になりました。合格可能性が低いという結果をもらうと当然ですが合格は厳しいかなと考えてみたり、逆に良い結果のときは、いくらも模試がよくてもこれで実際の試験での合格が保証されるものではないと考えてみたり不安は尽きません。
 そんなこんなで色々な模試を何回か繰り返し受けていく中で、ふと、やるべきことは結局は2月1日にいかに点数を取るかというところに集約されるように思えてきました。目の前の模試で偏差値を5上げるということよりも、いかに本番で合格最低点をクリアーするか。こちらのほうが大切に思えてきたのです。
 そして模試の結果の出揃い始めた秋深い頃、12月から1月にペースを上げて2月1日を迎えれば、もしかしたら何とかなるかもしれないと思い始めました(波がある以上、丁半博打が打てる状況になったということでしかありませんが)。
 冬休みから1月にかけてはそれこそ過去問と既得知識の整理に明け暮れました。そんな中、1月中旬に聖光の帰国枠の試験がありました。試験直後、塾でした自己採点で算数が壊滅的だったのでダメだろうという思いで翌日の合格発表を見たのですが、思いのほか合格。正直申し上げて、親としてはこの時が一番発表後に安堵感がありました(これで路頭に迷わない)。ですが、2月1日までは子どもが気を緩めないようにその素振りを見せないようにしました。

いざ本番
 2月1日は冷たい雨の日でした。妻が麻布まで子どもを送り届け、試験終了時に私がピックアップするという段取りです。
 朝、子どもを送り届けた妻から私に一通のメール。「今教室に入りました。なんだか緊張してるみたい。」
 仕事をやりくりし、私は試験の終わる約1時間前にはまだ雨の続く麻布の中庭に到着していました。途中正門を入った右手の掲示板にはすでに今日の試験問題が貼られています。前の人の肩越しに、かじかむ手で傘をささえながら問題を見ると国語と社会は例年通り。算数は、「ん、これなら結構点取れるかも。」が率直な印象でした。(後からわかったことですが、今年の算数は易化傾向だったようです。)
 試験終了時刻を過ぎ、受験生は番号順に中庭に出てきました。いつもながらにボーっとしていると同時に、今までの人生で一番の戦いを終え少し虚脱しているうちの子の姿を見つけたときは、「とにかく戦った。二日後には結果が出るけれど、三年かけてともに準備し、そして今日子ども自身が一人で戦った」という事実だけでなんだか胸が一杯になりました。おそらくまわりの保護者の方々もそのような心持ちだったのではないでしょうか。
 帰りの正門へ続く狭い道には受験生親子の色とりどりの傘の花が咲いていました。そして麻布の坂を言葉少なに歩いていると、雨は今までの緊張を少しずつ溶かしてくれていました。
 子どもはこの後、塾へ行き、先生と自己採点をしています。算数が60点中53点。問題が易化したとはいえ、本番の緊張の中でよく戦ったと思います。この結果を家で聞いた時、今まで受験という九十九折の山道の中で右往左往していた我々親子に初めてぼんやりと山の頂が見えてきました。

そして発表
 2月3日。麻布には午後2時半頃仕事先から到着。妻と子どもはすでに構内で待機とのメールを受け取り、人ごみをかき分けて合流。
 まだ発表の準備段階で中庭には入れず、張られたロープの外側で、多くの受験生親子と共に3人でその時を待っていました。すると子どもが、
「発表になってもまず僕が見てくるからここで待ってて」
「オイオイ!親は置いてきぼりか」
 仕方なく私は妻と共にロープが外れ、皆が一斉に掲示板の前に群がるのを尻目にその場で待っていました。 ほどなく子どもが遠くから、アメリカ流に親指を上に向け、OKのサイン。
 「あれ、受かったみたい!?」と私。これを合図に我々2人も掲示板の前へ。
そして、
親として子どもに体験させてやりたかったもの
子どもが自分の手でつかんだもの

彼の受験番号「841」を確認しました。

麻布での生活を垣間見て
 入試から2ヶ月たち、4月になり、入学式から文化祭、そして中間試験。わずか2ヶ月ですが子どもの麻布生としての生活が始まっています。
 入学式での校長先生の話はソクラテスの「無知の知」。そして文化祭実行委員長からは「先輩に敬語を使ってね。」それと「自分と違う他の人の個性を認め合おう。」でした。帰りに正門への細い道の両側に彼ら文実の面々がならび、近づくと「ご入学おめでとうございます。」とそれぞれの新入生親子に頭を下げています。「色とりどりの髪の毛にモヒカンもいるけれどいい奴らじゃないか」と思いました。
 また、彼らが作った新入生用の麻布生活のためのマニュアルには、「麻布の自由・自治は学園紛争の時、先輩が勝ち取ったものであることを知らないと恥ずかしいよ。」と書かれていました。良くも悪しくもこの学校では生徒が主役なのだと感じました。
 これから麻布での6年間の中で、はたして子どもは志ある青年に成長するのでしょうか。中学入学後、すでに1回定期券を紛失していますが。

終わりに
 本当に幸運に恵まれた受験だったと思います。もう一度受験して再び合格できるかと問われると自信はありません。紙一重のところを本人がうまく渡りきったということではないでしょうか。
 今振り返れば、志望校の受験日に勝負できる態勢を整えるための三年間だったような気がします。2月1日、子どもが自分の手で鉛筆を持ち、実際の試験会場で自分の頭で考え、問題に取り組む、そのための三年間。私が出来たのはそこまでです。あとは本人次第、そして運次第。親としては準備の段階でやれるだけのことはやり、結果がダメだった時は、それはそれでしょうがないかなと最後まで思っていました。ですから結果については最悪仕方ないとしても、逆に準備については後でああすればよかったと後悔したくないという気持ちはありました。
 うちの子は情報処理能力では劣っていると思います。瞬時に的確な判断を下し、大量の問題をスピードをもってこなしていくことはできません。ですからこの手の問題を出題する学校を受験していたら苦戦をしいられたと思います。逆に言えば麻布のような記述式だからこそ、勝負の土俵に上がれたのだと思います。そこのところの個性にあった志望校の選択ができたことが幸いだったかもしれません。
 終わりにいろいろお世話になった仲村先生、中野先生にお礼を申し上げたいと思います。有難うございました。




HALLOWEEN

©2005 Halloween